iAäTdä@ätärfiä

Transcription

iAäTdä@ätärfiä
主人と下僕の弁証法
ブレヒト『主人のプンテイラと下僕のマソティ』試論
本
根
Dialektik
Herrscbaft
Yon
versuch
‑
子*
Knechtschaft
und
Puntila
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Die
Spiele
ベルトルト・ブレヒト(Bertolt
Brecbt)ほ種々の特異な人物を劇中人物として描き出
したカミ,大衆劇『主人のプソティラと下僕のマッティ』
("HerrPuntilaund
sein
Knecht
Matti")においては,酔うと人間的博愛的になる大酒呑みのプソティラとその下僕のマッ
チィの,滑梧な二人組を登場させている。プソティラほ素面の時ほ,冷酷で計算高いフィ
ンランドの大地主であるカミ,酔うと,人頼みな兄弟と言うような人間の間の差別に大反対
の,どこかバッカス的な自然児である。かたや,運転手として雇われているマソティは,
‑シェクの措くシュベイク1)型の下僕で,
「はい,かしこまりました,旦那様。」と言うの
を口癖とするが,悟性のすぐれた,決して旦那の感傷に共感しない,冷静に我と彼との区
別を忘れない男である。
この作品ほブレヒトの亡命生活8年目の1940年に,亡命先のフィンランドで善かれた。
1940年にドイツ軍が
1933年のヒトラー政権成立以i&,デンマークに逃れたブレヒトは,
デンマークに侵入するに至り,フィンランドに渡り,家族・秘書共々アメリカ合衆国のど
ザを待っていた。当時,フィンランドの女流作家‑ラ・ヴォリヨッキィの招きで,彼女の
領地マルレペックに1年弱滞在したが,その間にヴォ1)ヨッキィの喜劇『お力ミくず姫』
("S畠gemehlprinzessin")2)をもとに善かれたのがこの作品である。
『主人のプソティラと
下僕のマッティ』はユーモアを内容とする故に,研究者間では正当な評価を受けず,また
上演に際しても,西側では自然児プソティラを強調して演出し,ブレヒトの処女作『バ‑
ル』
("Baaltt)3'の延長上に置いて解釈されがちなのに対して,東側では「過去のこととな
った」主人と下僕の階級闘争に力点をおいて上演しているが,上演回数は他の作品より多
15年の亡命生活のあとでブレヒトカミ東ベルリンのシッフバ
いという現象を呈している。
ウアーダムの劇場をベルリン・アンサンブルの本拠と決め,そのこけら落しに演じたのが,
このプソティラ劇である。この大衆劇が詩的なものとユーモアとを持っており,演劇本来
の楽しさを具現していることを,観衆も作者も知っていたのである。
しかし,この大衆劇が善かれた時点は亡命者にとってほ深刻な時であった。
という詩でブレヒトは,フィンランドへの到着を次のように表現している。
同国人から逃れて
僕ほとうとうフィンランドに辿りついた。
昨日はまだ知り合っていなかった友人たちカミ
ベットを
清潔な部屋にしつらえてくれた。ラt?オで
くず達の戦勝のニュースを聞く。好奇心にかられて
『1940年』
主人と下僕の弁証法
僕ほ世界地図を見る。
45
ほるか上方の
ラップランドに
北極海に面して
まだそこに小さな戸口があるのが見える4)。
フィンランドの夏は,
「魚の多い湖沼よ!美しい木のある森よ!/v/白樺といちごの香
「香りと音と形と感覚が溶け合って」いた。しかし,
りよ!」と歌い上げるように美しく,
「亡命者は木の床に座って/困難な手仕事をまたとりあげる。希望するという仕事を。」
(『フィンランドの風景』)5)と示される様に,ただひたすら「希望すること」を日課とせね
ばならなかった。この希望する姿勢の中から,
「笑う」ことを内容した大衆劇が生まれた
のである。笑うことほこの場合,遠い見通しに立ってする動作である。前口上で
皆さん,戦いほ厳しいのですが
しかし,今でほ光カミさして来ました。
ただし,まだ笑ってない人ほ,危横を脱しないことでしょう。
だから,私たちほ滑梧な芝居を作りました。
と述べられるように,
「笑う」こと√ほ単に言葉の遊びから生じるコミックでなく,対立す
るものが同時に一つのものの中にある滑梧さであって,現在への正しい認識の一過程であ
る.同じ頃善かれた『亡命者の対話』でほ,ユーモアを‑‑ゲルの弁証法と結びつけで考
えさせている。
ツイフィル:ユーモアカミ全然ない国で暮すのは堪え難いことです。しかし,もっと堪
え難いのは,ユーモアが必要な国で暮すことです。
カレ:母が何も食卓に出すものカミなくて,バタ‑がない時にほよく‑‑モアをパンの
上へ塗ってくれました。パンはまずくほなかったのですが,しかし満腹しません
でした6)0
亡命生活はユーモアが必要なところに成り立っている。つまり,ユーモアとほこの場合,
ファッシズムが作り出す現実の中.に同時にその崩壊の兆しを見るような観察態度と無縁で
はない。あることが成り立っていながら,しかし成り立っていないおかしさに気付く精神
である。
ツイフィル:ユーモアのことを考えると,いつも哲学者の‑‑ゲルを思い出すのです。
〔‑〕彼は,例えば秩序といったようなことを無秩序なしでは考えることができ
なかったというユーモアを持っていたのです。大きな秩序のそばにほ大きな無秩
序があることを良く知ってましたし,しかもそれら二つが同じ所にあるとさえ言
うに至ったのですよ!ト・〕
私はリュ‑マチで動けなかった時に,
LF大論理学』を読んだことがありますがァ
これほ世界文学の中で最高に‑‑モアのある作品です。ト・コ私は‑‑ゲルの弁
証法を理解した人で,
E・・・〕弁
証法を学ぶのに最良の学校は亡命です。鋭敏な弁証家は亡命者でした。彼らほ変
‑‑モアのない人にほ会ったことカミありません。
革故に逃亡者となり,変革すること以外何も学ばないのです.ト・〕彼らほ矛盾
46
根
本
訴
騰
子
に対して繊細な限を持っているのです。弁証法万歳!
亡命中に書かれた『プソティラとマッティ』でほ,
を論じた章の「主人と下僕」
‑‑ゲルの『精神現象学』の自意識
(HerrschafトKnechtschaft)の弁証法が意識的にとり入れら
れている。
‑‑ゲルが自己意識の自立性と非自立性について,主人と下僕を例にとって論述したこ
との中で,特に下僕の自立的意識が何に媒介されて,どのように成立するかが注目される。
即ち,主人が下僕を媒介として「物」
(Ding二)にかかわり,下僕は主人に代って「物」を
変化させて,それを定在とすることによって,物に形式を与え,持続性を与える。その行
為によって下僕ほ自立した自己意識をかちとるが,反対に,主人ほ下僕に奉仕させること
により,結果として享楽を受けとる。しかし享楽は物の非自立性にかかわっており,その
まま消え去る性質を持っているので,自己を自立したものとして対象化することができな
い。従って,
‑←ゲルは「自立的意識の真理は下僕的意識である。」7)と断定する。
労働する意識(下僕)は,まさに物を変化させることにより,物に形式を与えるばかり
でなく,自己自身を自立的存在として直観し,自己形成(sick
bilden)する。この主人に
対する下僕の優位性を‑‑ゲルほ「労働」を契機として解明した。
∴‑ゲルの著作をカール・コルシュ(Karl
Korsch)と共に読んだ頃より少し後に,ブ
レヒトほディドロ(Denis
Fataliste
et
son
Maitre"
Diderot)の小説『運命論者ジャックとその主人』
(Jacques
le
1792)を入念に読んでいる8)。この小説の中で,従僕ジャック
の主人に対する優位的態度は,プソティラ劇に大いに参考になったと思われる。例えば,
主人にちょっとした悪戯をして谷められると,ジャックは主人に向って次のような口をき
く。
私たちが大童酌ま望まないのに行動しているということは明々白々じゃありま
せんかね?
胸に手をあてて言ってごらんなさいよ,あなたが30分前におっ
しゃって,なさったことのうちで,極く些細なことでも,あなたの欲っしたこ
とがあったかどうかを。あなたほ私の操り人形じゃなかったんですかね?9)
この論文でほ上記で見たような主人と下僕の間の弁証法が,大衆劇『主人のプソティラ
と下僕のマッチィ』でどのように演劇的に表現されるれ
弁証法が文学に意識的にとり入
れられて,ユーモアと関連しなカミら展開される時,哲学とは異ったどんな個別性を持つれ
について検討するb
l
この劇の原題名ほ『雨ほいつも上から下へ降るi!
nacb
(,,Der Regen丑ie13t
immer
unten")であった。ブレヒトほ,雨が上から下‑降るように,決して変らない真理
ほ階級闘争の真理であると主張する。
『階級敵の歌』でほ「雨ほ上から下‑降る」という
言葉が,連ごとに繰り返えされるが,最後の4行ほ以下の通りである。
我々二人を
いつか
結びつけるような
Yon
oben
47
主人と下僕の弁証法
言葉ほ見つからない:
雨は上から下へ降る
そして
お前は
俺の階級の敵だ。10)
また,ブレヒトの『作業日誌』
についてふれた最初の記述で,
("Arbeitsjournal")でも,
『プソティラとマッチィ』劇
「主人(herr)と下僕(knecht)の対立をシーンとして形象
化すること」11)という表現を用いているように,主人と下僕の階級的対立は初めから措定
されている。
しかし,この階級対立ほ,いわゆる農民を搾取する冷酷な地主とそれに反逆する農民と
いう図式的な周知の対立として呈示されているのではない。主人のプソティラは素面の時
は普通の地主であるが,酒に酔うと地主としての存在を呪う一個の博愛主義者である。し
かもプソティラほフィンランドの自然の中でもっとも自然児らしく魅力いっぱいに酔っぱ
らっているのである。
『注意書き』の中でブレヒトカミ「どの人物も本来の魅力をいささか
も損わないように演ずるべきである」と要求しているが,そのように舞台の上でのプンテ
イラほ「星空の下での立小便」の好きな,天衣無縫の姿をとっているo
プソティラの離酎は正気であり,正気ほ発作であること茄先ず示されるo
彼ほアクアヴィ‑ト(北欧のブランディ)を三日間飲み続け,相手の判事ほ既にダウン
してテーブルの下に転げている。そこへ,車の中で二晩待たされていた運転手のマッティ
が入って来ると,彼に向ってプソティラは自分の病気を打ち合ける。
プソティラ:見ただけじゃ分らないだろうカミ(そう言って陰気にマッチィを見つめな
カミら),俺は発作を起すのだ。
マッチィ:そんなことおっしゃってほいけませんよ。
プソティラ:君,笑いごとじゃないんだ。少なくとも3ケ月に1回ほ襲われるんだか
らね。俺ほ目カミ醒めて,突然へべれけに冷静になっている。どう思うかね?
マッティ:この冷静の発作というやつにほ,周期的にみまわれるのですか?
プソティラ:そうだ,周期的にだ。つまり,普段俺は,今君も見る通り,全く正常な
のだ。自分の精神力をちゃんと持っている。自分の感覚を思うように働かせるの
だ。その時,発作が来る。初めほ眼力ミ何となくちくtlはぐで,この2本のフォーク
代りに‑(彼はフォークを1本振り上げる)‑1本しか見えないんだ.
:それでほ,あなたは半分盲目なのですか?
プソティラ:俺は全世界の半分しか見えない。なお悪いことには,この全身麻捧の冷静
マッティ(驚いて)
の発作の間中,俺が森になってしまうことだ。もうそうなると,何の制約も
なってしまう。
〔‑〕その時はそのまま責任能力がついてしまうのだ。責任能力
とほどんな意味かお前には分っているだろう。責任能力のある人というのほ,人
力ミ倍額を寄せることの出来る人のことだo12)
プソティラ旦那は,酪酎している時人間・らしいまともな生活であり,醒めた時ほ冷静さ
の発作を起こしている病的な状態である。冷静な時のプソティラが地主としての生活を支
えており,酔うと人間本来の姿に返えって,労働者や召使いと自分との区別をなくして,
48
根
本
薪
騰
子
種々の「人間的な」約束をするが,醒めるとすべて反古とし手の平を返えしたように冷酷
Mensch
になるという二重人格ほ,ブレヒトの『ゼツアンの善人』
("per gute
Sezuan")の主人公が一人で善悪の二役を変装して演じていることと同義であるが,ここ
Yon
でほ善悪の対立でなく,主人と下僕の対立が外にあって,それとの関係でプソティラの二
重人格の意味が問われるのである。
下僕のマッティほ,プソティラとほ対照的に,悟性の発達した男である。彼は二重人格
の主人に対して,冷静に賢明に対処しなければならない。だから,発作の打ち明け話のあ
とで,プソティラが「我々の間にはもうどんな溝もないと俺ほ確信する。溝ほないと言
え!」と迫ると,マッティは「命令だと思って申し上げます,プソティラの旦那様。私達
の間に溝はございません!」と言って二人の問に「命令」という仲介物を置いて同意する
のである。
主人のプソティラが酔って「人間的に」なってしまうことが,下僕マッティにとって,
用心して避けるべきことであることが示される。即ち,
自分と対等に扱い,例えば,
「人間的に」なった主人は下僕を
「俺の財布を預かっといてくれ給え。酔うとなくしてしまう
から。」13)とマッチィに財布を預けるカミ,酒から醒めると,マッティが自分の財布を身につ
けているのを見つけて,マッティを泥棒扱いするという有様であるので,マッティはいつ
も素面に返えった主人に対して身を護る用心をしていなければならない。
季節農業労働者の市(Gesindemarkt)の場でほ,プソティラの「人間性」カミどのように
機能するかが示される。このシーンはヴォリョッキの原作にほなく,マルレペック滞在中
にブレヒトが近くで自分で見た市が形象化されている。
プソティラほ外交官補に娘を嫁入らせるための持参金用に森を一つ売らなければならな
い。しかし,彼は自然の中でしか生きられない男であるから,森を売ることにほ耐えられ
ない.この本音が酒に酔うと出てくるので,酷配した彼ほ,その森の中で働かせる農業労
働者を雇うつもりで出かける。彼はしかし,労働者を市(Markt)に買いに行ったのであ
るカ1;,酔って「人間的」になっているため,人間が売買される市場力ミ耐えられない。
プソティラ:俺はこの労働者市というやつにたえられない。馬とか牛とかを買うのな
ら市場へ行くし,その時は何も考えない。しかし,お前たちほ人間なのだから,
市場で売買されるようなことであってほならない。俺の言うのほもっともだろ
う?
みすぼらしい労働者:勿論ですとも。
マッティ:失礼ながら,プソティラの旦那様,あなたのおっしゃるのは正しくないで
すよ。労働者は仕事が必要だし,あなたは仕事を持っておられる。そこで取り引
きが行われるのです。そこが市場であろうと教会であろうと,いつだって市場が
あるのですよ。それに,どうか速かに決めて下さいよo14)
運転手として雇われているマッティは,主人とは反対に,冷静に人間の労働の売買を妥
当なものと洞察している。すっかり感傷的になったプソティラほ,労働者を人間抑こ扱う
べきだと思いほじめたので,売買の取り引きに参加するのを避けようとする。マッチィほ,
49
主人と下僕の弁証法
雇うと口約束した労働者に手金を支払って契約を成立させるようにプソティラに迫るが,
プソティラは労働者にコ‑ヒ‑をおごってやっても,契約書にサインほしない。人間と人
間の心のふれあいを信じて,商取り引きのやり方で労働者を「買う」のほしたくない,と
いう大変ご立派な態度である。しかし,市はもう終りに近づいており,もし契約してもら
えなければ,労働者は次の市まであぶれてしまうことを心配して,マッテイカミ催促すると,
プソティラは「俺ほ冷血に人間を買うなんてことは出来ない。しかし,俺はプソティラ農
場に安住の地(Eeim)を与えてやるんだ。」15)と言うが,これを聞いて,判断力のある労働
者は立ち去ってしまう。彼の人間的言葉を信じてプソティラ農場までついて来た労働者達
ほ,陶酔から醒めて森を売る決JLhを新たにしたプソティラに冷く追い払われ,仕事なしに
1年間を棒にふることになってしまう。この場面はこのように,プソティラの酪酎した時
の「人間的な」言動が,まさに人間的であることによって,それを信じた労働者を打ちの
「人間性」の要求をスローガンとし
めすのである。ここには,反ファシズム運動の中で,
てファシズムに対決しようと主張したかなり多くの良心的作家達に対しての,
「 人間性」
という言葉が対立を酸味にするというブレヒトの反論を見てとることができる。
主人と下僕の境界をとり去ってしまうことにより打撃を受けるのは下僕の方であるのに
対して,主人ほ感傷的なひとりよカミりを下僕相手に押しつけカミましく喋って楽しむ。プソ
ティラのやっていることほ,従って,惑わしであり,享楽である。しかし,酔ったプソテ
ィラの側からは,醒めた時の地主のプソティラが見えるので,時々彼は自分が悪を行なう
自分はいかに地主の役を強いられているかを嘆く。プソティラ
のにどんな緊張が必要れ
をこの角度からだけ見て,地主としての運命を背負わされた可哀そうな人間という同情の
念をもった解釈をすると,主人と下僕の間にある搾取の関係が不明瞭になってしまう16'c
我々は悲しんでいる人を見ればまず同情するが,もしかしたらその人は,実入りの少なさ
を嘆いている泥棒かも知れないのである,とブレヒトは別の場所で語っている。
2
下僕のマッチィほあくまで主従の関係を区別をもって考察する。この悟性の力が,下僕
の生き延びるための保証である。しかし,プソティラの解酎があまりにも自然で魅力的な
ので,マッティは時には二人の間の境界を超えてプソティラと同化してしまいそうな危険
を感じるのである。彼はこの状態を避けるため,人間関係が言葉では変えることができな
いことを,目に見えるように示さなければならない。その試みが,劇中に挿入されたシュ
ベイク風の寓話やエピソードや,劇中劇(Spiele
im
Spiel)などである。劇中劇はブレヒ
トによってほ,舞台を異化する方法として用いられて釆たが,このプソティラ劇の中でほ.
異化効果のためばかりでなく,下僕のマソティに主導権を持たして演じさせることにより,
この芝居の内容である下僕の主人に対する優位性が,形式としても成り立つように考慮さ
れている。
劇中劇ほ動作をもって演じられることもあるし,語りが中心の場合もある。例えば季節
50
根
本
蔚
騰
子
労働者市場での出来事を,プソティラほマッティに召使い達の前で語らせる。また,キザ
な持参金目当ての解約者を追い払おうと,プソティラの娘エーファほサウナ小屋の中でマ
ッティと恋人同志の大芝居をうつ。
サウナ風呂の小屋の中ほ観客席の方からほ見えて,外にいるプソティラと婚約者の外交
官補からほ見えないようになっている。二人はマッティが,エーファの入ったサウナ小屋
に入った後姿をみて,外で耳をそば立てる.すると,
と言う声が聞えてくる。マッチィは小声で,
‑‑ファの「駄目よ!駄目よ!」
「もっと抵抗している感じを出して下さいよ」
と注文をつける.すると,エーファが「いやよ!いやよ!いやよ!
と言えばいいの?」と指示を仰くoo
(小声で)あと何
「そうしてほいけないと言いなさい。もっとその身に
なって考えて下さい!色っぽくやって下さいよ!」という要求をきいてエーファが「そ
んなことほさせないわ!」すると外でプソティラがたまりかねて「エーファ!」と怒鳴る。
「さ,もっと!狂わしい情熱の感じを出して,もっと!」とマッティは指示する。髪を
乱し,ブラウスのボタンをほずしたエーファが,小屋の外へ飛び出すと,待ちかまえてい
た父親は,一体何をしていたのれ
を見せ,
と問いつめる。そこ‑マッチィが出てきて,トランプ
「お嬢さんと66をやってたんです」としらばくれる。婚約者ほすぐにその言いわ
けを信じたがり,二人ほ立ち去る。スキャソダル作りの芝居に失敗した二人ほ,
「あの人
の借金は我々が思っていたよりもずっと多いに違いない」17)とガックリする。この芝居ほ
マッチィの演出で演じられ,マッチィ自身ちゃんとトランプを用意して自分の逃げ道を作
っている。
このような滑梧な場面も,ブレヒトは道化芝居のようにでなく,
で演じることを要求する。
舞台装置に,動作に,
「芸術味ある素朴さ」
「出来事そのものの美しさが,美の程度の大小にかかわらず,
′言葉の表現に力を発揮しなければならない。J18)その結果,イタリア
の古いコメディ・デッラルテの要素と写実的な大衆劇の要素を備えた様式で上浜するよう
に,と述べている。現代人を,
「感覚に訴えるようなやり方で,朗らかに楽しませるのカミ,
演劇の使命である」19)と,ブレヒトは強調するが,プソティラ劇はまさにそのような要素
を持っている。劇中劇は従って全体との関連の中で機能するばかりでなく,その場面カミ独
立した楽しさを提供する。
劇中劇はマッティを中心にまだいくつか演じられる。プソティラが4人の早起き娘たち
と婚約したので,この4人がプソティラを訪ねて釆た時の,マッティの模擬裁判の練習。
プソティラに追い帰えされた4人が,マメの出来た足を引きずって帰える途中で4人力ミそ
れぞれ帰る4エピソード。これは観客に向って語られる。エーファの婚約者を追い払う時
の笑い話と,それに続くマッティのエーファに対する運転手の女房としての適性のテスト
劇。赤いズルッカラの歌う伯爵夫人と森番のうた。断酒を宣言したプソティラカミ,また大
酒を飲んで酔っぱらい,マッチィに命じて家具で‑テルマ山を製らせ,二人で山に登り,
ふるさとタグァストラントの美しさを誕歌する場面。
マッティほプソティラに娘と結婚するよう言われた時,この結婿が成り立たないことを
51
主人と下僕の弁証法
示すため・に,エーフ7に運転手の妻の役を演じさせてテストするシーソを作り出す。エー
ファの演じる運転手の妻は,疲れて帰った亭主の無言の要求カミわからず!ただ片時も喋る
のを止めない。
‑‑ファはいくつかのテストで不合格になるが,
‑つだけ良く出来た答が
あったので,マッティはエーファの尻をPPく。エーフ7はそれを侮蔑されたとして怒り出
す。 「お嬢さんのお尻を叩いたのをお許し下さい,プソティラの旦那様。あれはテストの
一部じやなくて,元気づけようとしてやったのでしたカ㍉
ごらんの通りわたし達の問の隔
りを表わしてしまいました。」20)とマッチィはプソティラにあやまる。これは,一つの動作
に対する全く異った受けとり方を示し,二人が結婿できないことの明白な事例となる。
アルコールから醒めたプソティラほ,酒を飲んだために種々の失敗をしたことを口惜し
く思い,ついに酒を断つ決心をする。劇中劇を含む第11場は『プソティラとマッチィ』
の中心的場面である。
プソティラほ家中のアルコールを処分すると称して,酒嘆を集めさせる。素面のプソテ
ィラはマッティの経歴カ言うさん臭いと嫌がらせを言い始める。そして,いつの問にカ㍉
ッティがさし出すグラスに,うわの空で酒を注いで飲みはじめる。この場面でほマッチィ
ほ命じられないのにグラスをさし出し,受けとるプソティラはうわの空で横械的にマッチ
イの動作に従わされている。プソティラが飲みはじめたのに気付いて女中たちが注意する
と,プソティラほ,何の酒の1杯や2杯,酒屋が嘘ついてないかどうか味見するだけだと
口実をつくる。初めほ「お前は俺に放蕩生活をさせて,俺を利用できると思ったのだろ
う」とマッティに悪口を言っているカミ,填を2本空ける内には,
「俺ほ一体何という暮し
をしているんだろう。終日皆をこき使い,雌牛の餌代を計算する以外何もしないとほ!」21)
と懐疑する真人間に変化してしまう。しかしプソティラほ赤だと言われるズルソカラを解
雇するのはやめないのである。
やカミてプソティラはマッティに向って,
「お前ほ俺の友達で,俺の細く険しい道の案内
人だ」22)と言いなカミら,お前がどんな素晴しい国にいるかを‑テルマ山に登って見せてや
ろうかと言う。プソティラほ「まず山を作れ」と命じる。マッティほ図書室の中で時間外
労働をする。貴重なたて形大時計を足で踏みつぶし,大きな銃器戸棚を破壊して,その残
骸と椅子とを,大きなどリヤード台の上に積み重ねて,
「激怒しながら」マッティは‑チ
ルマ山を作る。
ベルリン・アンサンプルの2度目の演出(1975年)でほ,ライネッケの演じるマッチ
ィは怒るというより,ただ家具を思いきりよく壊して山を作った。破壊すること自体にマ
ッティが熱中しているような印象を受けた。一方,岩淵演出の東京公演(1983年)では,
この怒りは充分に表現されていなかった。こq)怒りの原因ほ,ズルッカラの解雇や自分も
前歴を洗われるという不安から生じたものと想像されるが,この根拠付桝ま二つの公演と
も不明確である。
プソティラとマッティの‑テルマ山登山のシーソで観察されるのは,支配していると思
いながら,実ほ支配されているユーモアである。
マ
52
板
木
繭
勝
子
二人はガラクタで作った山を登りはじめる。
プソティラ:首の骨を折るかもしれないぞ。
マッチィ(プソティラを支える)
:もし私が支えなければ,あなたは平地でだって骨を
折るでしょうよ。
プソティラ:だからお前を一緒に連れて釆たのだ,マッティ。
下僕が作った山を,下僕に支えられて登り,プソティラほ頂上のすばらしい眺望を楽し
む。
プソティラ:ああ,素晴しきタグァストラントよ。お前の美しさ全部オ;見えるように,
もう‑飲みしたい!
マッチィ:ちょっとお待ちを。山を降りて赤ワインをとって参ります!(彼は山を下
って,また登ってくる)
素晴しいファンタジーを得るためにほ,酒の助けカミいる。それを調達する■のは,下僕の
役目である。山頂からプソティラは,美しい故郷の眺望を生き生きと描き出す。
10キロ
メーター先の木材の切口の匂いや,白樺の菓や雨の後の苗の香りに至るまで,プソティラ
は山頂で喚ぎ分ける。
プソティラ:おお,タグァストラントよ,祝福された国よ。空と湖と国民と森よ。(マ
ッティに向って)これを見ると心が晴れ晴れすると言え!
マソティ:あなたの(下線引用老)森を見ると,心が晴れ晴れとします,プソティラ
の旦那様。23) (11場幕)
マッテイカミ主人の感激に決して同感していないことが,この「あなたの」という言葉で
示される。彼には,祖国とか国土とぁの漠然とした言葉でなく,現実的な,区別を示すカ
テゴリーが不可欠である。眼下に見えるのは祖国でなく,プソティラの領地であるから,
マッチィほあなたの森という様に所有名詞をつけて,主人の感激に巻き込まれることを避
ける。
この山登りの後で,プソティラはマッティに財産の半分を譲る約束をするに至るので,
マッティほプソティラ農場を立ち去ることを決心する。プソティラの素面の発作が起ると,
「良い主人を,
もう生命の危険さえ生じかねないことを,マッチィほ予感したからである。
下僕達はすぐに見つけるだろう/まず彼らカミ自分自身の主人になりさえすれば」24'と最後
にマッチィは語る。ここでは,未来において下僕たちカミ革命を起こして誰かの主人になる
ことを言っているのでほなく,下僕がまず自分自身の主人になること,即ち自立的意識を
もつことを言っているのである。
この大衆劇のチュ‑リヒ初演(1948年)の折の注意書きでブレヒトほ,プソティラと
マッティの基本的特徴を次のように述べている。
大切なのはプソティラとマッティの間の階級対立を表現することである。マ
ッチィの役には正しいバランスが成り立っていなければならない。即ち精神的
優位ほマッティにある。プソティラを演ずる老は,軒酎の場面でほヴァイタリ
ティや魅力で,観客を感激させて,彼らからプソティラを批判する自由を失わ
53
主人と下僕の弁証法
せないように気をつけなければならない。25う
従って,
‑テルマ山の場面で自然美に陶酔したプソティラの言葉は,感情移入をもって
「あなたの森」と答えるマッティの冷静な返事が生かされる
完壁に演じられてはならず,
●
●
●
●
ような空間が残されるべきである。
さて,問題ほ主人プソティラと下僕マッティの対立関係カミどのように表現されているか
である。演技上の動作でほ,マッティがいつも主人に対し精神的優位にあるよう要求され
ている。作品中では,マッチィの主人に対する優位ほ以下のように観察されるo
酔った主人プソティラのファンタジーは,まず第一に下僕マッチィという聞き役カ㍑、る
ことにより完全になる。
Herr
「かしこまりました。プソティラの旦那様」(,,Jawobl,
Pun‑
tila")と答えてもらうことにより,主人は是認されてあるのである。しかもこの言葉は,
「ご無理ごもっとも」という言葉と同じように,それ以上主人の感激に介入するのを拒否
する言葉でもある。第二に,プソティラの楽しみはすべてマソティの労働によってもたら
されたものである。この劇の中でほ,それが多数の劇中劇という形式で,マッチィの演出
と演技を中心に据えて表現している。マッチィの劇中の労働は,家具を壊して山を作る作
業でも,主人に代ってなされる主人‑の奉仕の仕事である。マッティは家具を変形して家
「山」にする。この解体と作成という労働を通じて,下僕
具というありようを否定して,
‑‑ゲルによれば,この
は純粋に自分だ捌こよって対象化されたものを見ることになる。
ようにして「下僕ほ労働することにより,自己の自立的存在を直観するようになる.o」
マッティとは対照的に,プソティラ旦那の方は,なるほどマッティに指示を与えて物の
変形を命じはしたが,結果的には出来上った形成物を享楽するだけである。
‑テルマ山頂
からの素盾しい眺望から生じた彼の感激は,マッチィの労働によって出来上っているので
あって,この楽しみはマソティに依存している。しかも,この楽しみほ物の変形と作成と
いう形で物は存続する形式を与えた下僕の労働と異り,すく叫こ消え去るという特徴を持っ
ている。一方,マッティの下僕としての自立的存在の認識ほ労働により物に形式を与え,
「歴史」を作る。この存続するものの歴史を冷静に洞察する
物を存続させることにより,
力において,下僕のマッティは主人プソティラの優位に立っていると言えるのであるo
これは‑‑ゲルが『精神現象学』の中の自己意識の章で「主人と下僕」の例で述べてい
(Spiele
ることと対応するカミ,プソティラ劇の中での下僕による労働ほ「劇中劇を演ずる」
Spiele
im
spielen)ことである。
‑‑ゲルカミ下僕の自立的意識を成立させる契横の一つと
した労働は,この文学作品でほ「演技」として示される。この場合,ガラグタで作られた
山を,酔狂の結果として否定的意味しかないと見倣すのでなく,観客にユーモアと思考の
契境を与えたと考えることができる。
注
ブレヒトの作品からの引f酌ますべてGesammelte
Werke
in
20
Banden・
Frankfurt
am
Main
1967による。これをGW省略し,巻数・頁数の順で掲げる。
1)チェコの作家ヤロスラフ・
,、シェク(Jaroslav Ha菖ek)の長編小説『勇敢な兵士シュヴェイクの冒
根
54
2)
騰
粛
子
Vajまkn§vejka) 1920‑1923の主人公シュヴェイクの語り口の癖が,マッ
dobriho
険』 (Osudy
本
ティの言葉に響いている.プソティラ劇の前後にブL,ヒトは『第二次大戦中のシュヴュイク』
Weltkrieg)の構想を立てているo
(schweyk im zweiten
Hella
Wuolijokiの『おがくず姫』はパッピー・エソドの大衆劇であるoこれより先に彼女の叔
Bacchus=)があり,こ
1927/28 (=Der血niscche
父をモデルにした『フィソラソドのバッカス』
Frankfurt
1978・
れもブレヒトのプソティラ劇の中にとり入れられている(Brecht‑Jahrbuch
am
Main
1978S.
961106).ヴォl)ヨキィとブレヒトの共同製作と,プソティラの成立史ほかなり複
Puutila
sein Knecht
Neureuter:Herr
und
雑で,最後には訴訟がヴォリヨキイから起こされたo
Biblio・
der
Matti.
Bericht
9.
tbek
zur
In
Entstehungsgeschichte・
:
Mitteilungen
1975など。
1
3)
Brecht:
4)
5)
ebd.:
GW
eゎd.:
GW
ll‑822・
6)
7)
ebd.:
Hegel,
GW
12‑1459f・
GW
91L8191
G.W・F・:
Ph豆nomenologie
des
Werke
Geistes・
3・ Frankfurt
8)
9)
der
deutschen
Schillergesellschaft
Jahrbucb
1973・
S・ 181・
Brecht:
Arbeitsjournal Fra・′M・
ftihrung.
10)
ll)
Berliner
Brecht:
eゎd.:
Jakob
Denis:
GW
und
Ensemble・
sein
Herr・
1975・
Ursprunge
Deutung,
15・
:
Diderot,
1970・
In:
1971・
S.
und
248・
Anmerkungen
zum
Stuck
und
zu
137.
4r1656・
17)
Brecbt:
GW
18)
19)
20)
21)
Brecht:
GW
ebd.:
GW
4‑1702・
22)
23)
24)
25)
ebd・:
GW
4‑1703・
ebd・:
GW
4‑1707・
GW
4‑1709・
ebd.: GW
Auf‑
unserer
3・ Auflage・
S・ 164・
4‑1615f・
12) ebd.: GW
4‑1619・この諾はチャップ1)ソのttCity11ight=のシーソから採ったとされる。
13) ebd.: GW
GW
4‑1637ff・
14) Brecht:
4‑1639・
15) ebd.: GW
Split Charakters
H・: Brecht's
Sokel・ Walter
16)この解釈は,例えばSokelがしているo
Chiffs1
Essays・
A Collection
on
Englewood
In:
Brecht・
TraglC.
sense
of the
ebd・:
Folgen.
25ト279・
9‑535・
Arbeitsjournal・
ebd∴ GW
GW
ebd.:
S・ 152・
Mayer:
Hans
Hegels
Knechtschaft・
und
Main・
am
へ‑ゲルの"Herrschaft‑Knechtschaft"をパラフレイズしようと試みた研究は,
ihre
literarische
Herrschaft
In
Deutschen
aus
17‑1168・
16‑699・
4‑1693・
17‑1172・
and
1962・
his
127‑

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